Society music essay 2

【 ポピュラー音楽史 概論(1) 序文 】

〜音楽修得の指針への理解を促す為に〜






 日本に於いて音楽教育とは、通常の学校教育や某楽器系大企業の幼児音楽教育等を考慮しても理解できる通り、ヨーロッパ古典に比重が大きくあります。和声(ハーモニー)的音楽構造の修得と言う意味で決してこれは間違いでは無いのですが、私達のやってる音楽、jazz、rock、広範囲な意味でのpops等、現代のポピュラリティーを大きく占めている音楽は、クラッシックの修得だけでは絶対に身につきません。

 そういう意味で、私は日本のアカデミックな音楽教育法全般に強く疑念を持っていますが、これは通常の学校教育などで私が個人的に感じた違和感、つまらなさ、精神的な幼稚さ、音楽用語を含む大時代的古臭さ、…など面罵してもし足りない個人的な憤りに由来しているのかもしれません(笑)。

 日本の場合だと、『ハ長調』なんて音楽用語を見ても解る様に、明治時代で静止したままです。『いろはにほへと』なんて現代日本人の一体誰が日常的に使用するのでしょうか? これではもしも文学等に例えるならば森鴎外や夏目漱石で止ったまま…などと言うのと同じです。クラッシック-古典の名の通り音楽構造の内容が中世の時代で静止したままなのです。

 そして歌唱法等で指摘すると、PA装置などの無い時代の必然から育ったあのオペラの唱法…、、『合唱』なんてものは音楽的、芸術的な意味で私にとっては強い嫌悪感の対象だったし、ドミソの和音で喜べる単純な精神が、小学生頃の自分には既に全く理解ができませんでした。

 その様な訳で私には学校教育上の音楽世界には、正直なところ魂のリアリティが全くありませんでした。

 …と、批判ばかりしてもつまらないので(笑)、そんな状況の日本で音楽、特にポピュラリティーの高い現代の音楽について学ぶ時のポイントを幾つか。pops,rock,jazz等の音楽の修得法と言ってもいい。




1 近代音楽の歴史をその音楽構造と共に探ること、そしてその時代背景、使用楽器、思想、それらに起因する具体的な技術力の部分。


2 いわゆるクラシック(ヨーロッパ古典音楽)がヨーロッパのキリスト教会の重力から成立っている様に、そのアンチテーゼとしての、アメリカ的な、つまりプロテスタントやブラック・チャーチに於いての教会音楽=ゴスペルなどの重心、特に黒人音楽から派生した音楽の系譜を捉えること。


3 インプロヴィゼーション=ハーモニーに寄り添った即興演奏法について学ぶこと。これは作曲、編曲にも結果的に繋がる重要な要素。


4 リズムやタイム感覚の解釈を会得する事。特に黒人音楽系のリズム感覚。


5 中心軸となる英語圏の音楽と共に、非英語圏に敷衍し派生した周辺の音楽全般をも詳しく捉える事。それらも上記1〜4の音楽的重力内にあると考えて良い。




 以上の事に運良く精通できた人は、いわゆるJ-Popなどの中にあっても、真に実力派のミュージシャンに成長する事に成功している様です。逆に言うと、上記の事をきちんと捉えて無い人がpopsやrockをやると(さすがにjazzなどは上記の音楽スキル無しで触れるなどと言う頓珍漢も居まい…)、お粗末極まり無い、勘違いの、単に奇妙な、音楽的骨格がまるで無い、要は魂の感動しない安っぽい音楽が出来上がる可能性が高い訳です。ハーモニー重視のヨーロッパの音楽の核心に「西洋音楽の父」などと称されるバッハが存在するのと同じ意味で、黒人音楽の重力が、たとえ黒人音楽では無い、一見、真っ白(白人的)に洗練された音楽と言えども、現代のポピュラリティ−の高い音楽に厳然と存在します。それが現代の雑多なポピュラー音楽の骨格、核の部分と言ってもいい。ヨーロッパへのアンチテーゼの文明(アメリカ)の、さらにアンチテーゼの黒人文化からそれが生まれ、それをヨーロッパの若者が評価して、反西洋としての東洋的なものを吸収し…、という具合に音楽が世界を渦巻きながら、エレクトリック等のテクノロジーと共に発展したのが20世紀以降の現代のポピュラリティ−の高い音楽の実相です。1〜5の要素はそれを差しています。

 即ち、中世以降19世紀以前の進行形で嘗てあったヨーロッパ古典音楽がクラッシックの音楽世界なら、20世紀以降から現在までがポップス全般を含む音楽史の進行形の時間軸であり、英語圏を中心としながらも、その周辺に敷衍しながらお互いに影響しあって育ったのが、現代の音楽です。その様相は21世紀の今現在の最先端部分も基本的にあまり変化が無い様です。黒人音楽がbluesやjazzに変わりrapやhip hopに擦り変わった‥という様な具合に…。
 そしてそういう発展過程に在る「ある種の怪しさ」も含む、音楽の進化の過程上にあるものこそ、真に今、生きて生命を持っている音楽であり、精製過程上の生の文化、生の文明な訳です。先に記した私が感じた学校教育上の音楽への違和感は、時間軸上の機能としては屍体の様な(無論、人類史としては重要ですが)音楽には権威があり、今現在、時代と寄り添い葛藤しつつ創造されている最中の音楽へは、何の反応も示さぬ無感覚や、感性の愚鈍や傲慢に対する怒りだったのかも知れません。

 しかし、当然の事ですが、幾ら現代が中世ヨーロッパへの反発から生じていたところで、和声をともなった音楽の規則性としてのバッハの偉業、その重力はかき消しようも無く(ベートーベン、モーツァルトなどは音楽構造上の観点に於いては軽く吹き飛ばせる‥、かも知れません)、それは黒人音楽などと云えども基本的にはその重力圏内ではあります。最近ではもしかしたらある種の人は、この辺りも飛び越しているのかも知れませんが、それが今後の歴史の中で人類的普遍性を持つかどうかはまだ疑問です。しかし現在既に21世紀ですが、22世紀ぐらいには、一般的な音楽観は相当な変貌している事でしょう。何しろ20世紀中盤の音楽構造上のモダニティーは現在ではもう「超」のつくオールドスタイルなのですから…。

 さて、この様な様相の20世紀以降のポピュラー音楽史ですが、音楽を長い間愛好しているヘヴィ−リスナーならば、ある意味当たり前のものであって、況してや音楽修得に永年努力している人なら、嗜好性では無く技術的な意味で通過していて当然のものばかりですが、音楽を聴き始めて10年にも満たない人や、音楽を始めて初学の人は、やけに広い音楽的海原のどれが何で…、などと言うのが飲み込みづらく、一体どれから手にしていいのか…、というのが現実だと思います。次回のコラムから暫く、よく雑誌等に有る趣味の嗜好性や個人的情性としてでは無く、主に音楽構造上からの、ミュージシャンの視点からの観点で20世紀に起こった音楽上の重要な出来事、現在の音楽を核心を外さずに巧く修得する為のポピュラー音楽史を連載します。










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